序説

立花隆氏の連載『私の東大論』は、当時の文藝春秋を眼にする機会がある度に読んでいた。外国在住だった事もあって、毎月読めてはいなかったし、読めた内容を本格的に批評する時間的余裕や、知識的意欲も、当時は欠けていた。立花氏の論説をまとまった形で手にしたのは、『天皇と東大』と題されて出版された後である。前々から蓑田胸喜に興味があった私は、題名に惹かれて、その中の第三十八章「狂信右翼・蓑田胸喜と滝川事件」を真っ先に読んだ。過去に読んだ記憶は薄れていたので、初めて読むのと同然であった。

そこで私の目を引いたのは、2点。一つは、立花氏が、蓑田による「大げさな傍点」(文字の横に強調用につけられる●等)に満ちた誌面を見て(本に於いて掲載(下の画像参照))、特段「異様」だとわざわざ形容した事。(これについては後述する。)もう一つは、蓑田の遺族の抗議によって、○によって伏せられた章末の諸文句の内容。後者については、大宅壮一文庫で確認したところ、○○○○○は全て、「真正の狂人」。○○は、「狂死」。その他、その項目の題名が、雑誌では「狂気蓑田はいつから狂ったか」であったのが、本では「黒板に蓑田狂気と落書き」に変更。


しかし、「狂気の証拠」、「狂気の一つの徴候」、「狂気を感じとっていた」、「本当に狂ったとしか思えない行動」、「いつから狂ったのか」、「赤狩り狂奔の時代からすでに狂っていた」、「日本の狂気の時代は、この狂気のイデオローグによって推進された時代だったのである」、と言う記述は放置。(そもそも、維持された章名の「狂信」から「狂気」まで大した距離は無い。)

最終項目において、立て続けに狂気を無駄なほど強調したのは、内容上の必然であるより、多分に、「狂気の時代は」云々と言う決め文句でこの章を締めたかったが故であろう。脆弱な根拠に、勘違いな思い込みを重ねて、疑惑の推定を断定へと持ち込む、悪徳検察官並の「絵」(青木雄二・前田恒彦)の書き様だ。しかし、「死者をリアルな存在として知っている人」である遺族に抗議されたので、「その認識に異を立てて争おうとは思わない」と言って、狂気断定を「不適切な表現であったとして」「取り下げ」た。が、良く見ると、立花氏が取り下げたのは、疎開から自決の間に関する狂気の記述でしかない。「赤狩り狂奔時代から」疎開時までの狂気断定は維持した。何たる欺瞞。

そもそも「日本の狂気の時代」、と言う一種の文学的表現が暗示する意味とは、その時代を担った日本人全てが狂気だった、と言う事である。言わば、それに対して蓑田を狂気とみなせば、当時の日本もしくは日本の権力潮流においては、蓑田は普通だった、と言う事でもある(普通もまた、狂気と共に、不明瞭な用語である事は勿論)。が、立花氏の文学的表現による個人史の冒瀆は、そう言う用語の局所的な逆転解釈だけでもって済ますべきものでは無い。立花氏の蓑田の誤評と無理解は、蓑田一個に留まらず、蓑田が体現した日本の或る文化と歴史の流れに関する誤評と無理解である。そこで、立花氏の無智愚論を解明する事をキッカケに、蓑田胸喜の思想と言動を遡源する。蓑田青年が育った明治や大正前期への旅でもある。今の日本の理解を深めんが為、過去の理解を深めたい。

2012年6月30日土曜日

蓑田の源流(草稿)

圏点乱用の代表格として総合雑誌『太陽』(明治28(1895)~昭和3(1928))の編集主幹を1897年から1902年まで務めた高山樗牛が挙げられる。

樗牛の乱用の例は無数あるが、興味深いものは、圏点乱用した『美的生活を論ず』(明治34年8月)に応じて姉崎正治(嘲風)(1873年7月25日~1949年7月23日)が書いた記事『高山樗牛に答ふるの書』(明治35年2~3月)では圏点を使わなかったのに、樗牛につられてか『高山君に贈る』(明治35年3~4月)、『再び樗牛に輿ふる書』(明治35年8月)では乱用する現象である。偶然なのか、一種の伝播現象なのか、編集側が足したのか不明だが、樗牛は圏点を促進する流れを担っていたとも見えるかも知れない。

「樗牛の文章が文字通り一世の青年を魅惑し、庶民的な一般性さえもったことがあった」(橋本文三)で言われる文章使いには、彼の愛用した圏点の使い方も含まれていただろう。

むろん、樗牛以前から圏点乱用の風潮は存在した。樗牛の活躍が目立ち始める前の、明治20年代前半においては、例えば朝比奈知泉(1862~1939)(陸羯南と徳富蘇峰と並ぶ記者)の例がある。

圏点が乱用されている記事を挙げてみる:『大学の独立を論ず』(明治22年東京新報)、『其実を挙げよ』(明治22年東京新聞)、『秩序』(明治22年東京新聞)、『創業開刊の一周年に当り敢て読者諸君に告ぐ』(明治22年東京新報)、『彼の狭隘なるものを笑ふ彼の躁急なるものを笑ふ』(明治23年東京新報)、『白日に識者の眼を偸まんとする暴論者あり』(明治23年東京新報)、『議院非神聖』(明治26年東京日々新聞)、『立憲革新党は大憲紛更党なり』(明治27年東京日々新聞)、『何の躁妄ぞ』(明治27年東京日々新聞)、『大国優容の象を失ふ勿れ』(明治27東京日々新聞)、『所謂責任問題(再び、三び、四び)』(明治28年7月30日、8月1、3、6日)。

樗牛もまた当然、誰かの文章に魅惑なり影響され、自分の文体を産んだのだろう。我々の関心は圏点の伝染にあることに留まらない。圏点の流れを追うのは、文体や思潮の流れを追うヒントにするためである。そこで、朝比奈は蓑田の文体に対して、これまた興味深い例を与えてくれる。これだ。

「内は政権の授受を円滑にして国力の発達を妨げず外は一致の力を以て国権の伸張を挙行せんこと此一挙を以て発靭(車編)となすべしと思念したればなり何ぞ料らん合同を発企して之に紛争周施したるもの猶褊狭腐淺を免れず一たび有力の一派を斥けて某合同従いて鞏固(きょうこ)なる能はず紛々紜々(ふんふんうんうん)今日に至って其基礎未だ定まらず而して現政府の文武官吏を統概し打して一丸となし合ふものを取り合はざるものを去るの雄図に至ては夢にだも見ることある能はざらんとは」

蓑田のと比べてみよう。

「内に国民実生活を残害汚濁し外に国威国権を未曾有に失墜したる政党万能議会中心主義の不忠『民政』思想の淵源と同様に、ドイツを『総奴隷』『朝貢国』たらしめロシアに『生地獄』を現実したる人類人道また日本国体の死敵、マルキシズムの日本に於ける病源地帯温床培養基が、共に日本教学国民思想の本源中枢たる各地帝国大学法文学部であるといふこと、ーーこれである、我等原理日本社・シキシマノミ会同志が、『宗教の代用物』『紙製怪物』としてのマルキシズムそのものに対してと共に、細脈のシキシマノのミチ学術的剖析を加へて『禊祓せよ、この泉源を!』と*れふしても息の根の続く限り絶叫呼号し来り、而していままた本書に於いて全国民同胞と関係当局とに訴え問責要請し祈願をこむるところのものは!」

似ていないだろうか?朝比奈の如き文章の流れに、蓑田の師匠三井甲之などが多用した長めの漢文調?哲学概念を加えれば、蓑田の文体が見えてくる。蓑田はこう言った文章を読んで育ったのだろう、と。

このような言動をする蓑田が生徒の嘲笑の対象であったと言う奥野信太郎(慶応大学における蓑田の元生徒)の証言は、蓑田の特異性=狂気を証明する為に引用される定番だが、それもまた時事批評をするものに付きまとうリスクでもあることを忘れてはならない。「余輩は商売、徒党、政府、人物の為に曲筆するを嫌うが故に直言の為に嘲を受くるは予め覚悟する所なればなり此嘲は余輩の直筆を畏るるに発するを知ればなり」と書く朝比奈もまた嘲笑の的であった。(厳密な文体分析は、また違う機会にする。)

何が曲筆で、何が直筆か、判断は難しい。大東亜戦争へと向かう明治、大正、昭和前期の一連の日本思想の「主流」は、敗戦と言う結果と、東京裁判と言う演出によって、全面的にか、大部分的に間違ったものと断定されてしまった。その判定の評価はさて置いて、結果を直視した蓑田は、己の努力の不備を深刻に認め、自決した。「叩くんだ、叩くんだ、悪いものを叩けば必ずいいものほんとうのものが生まれるに決まっている」と言って、批判を続けた彼は、身をもって、悪の否定から、善は必ずしも産まれないことを証明した一人でもあった。それは、フランスにおける1960年代の学生運動のリーダーが、テレビのインタビューで、今の体制の政策が不満なら、何に満足すると訊かれ、「私は何が欲しいか判りませんが、何が欲しくないかは判ります」と答えた姿と重なる。

ナイーブ、余りにもナイーブな理想主義者たち。

長谷川天渓はこう言った人物像をドンキホーテになぞる「ドンキオテは全然此の現前の現実を顧みざる人物なり、否、其の能力なき奇物なり。彼の目に映じたる現実は、*く騎士道を標準すとして幻像化せらる。[...]彼は其の幻像世界に在りて、天帝の定めし秩序を快復せむことを謀りぬ。[...]彼の思想と行為との間には一厘の隔隙もなく、思想即ち意志なり活動なり。彼は悪と見れば直に之を除ぞかむとして、毫も自己の利不利を顧慮せず。[...]愛すべき騎士は幾たびか傷を蒙り、侮辱せられ、狂人視せられき。[去れど毫も恨む所なく、自分の修行未熟なるお責むるは彼なり。]ハムレットは同情すべき人物なり、ドンキオテは尊敬すべき人物なり。されど現代には幾許のドンキオテありや。理想を口にし、神を讃美する者其の数幾百万なるを知らずと謂えども多くは皆な活動を伴わざるドンキオテならずや、似而非ドンキオテは社会の大部分を占め、その最も秀でたる者は、宗教家とか、或は理想家哲学者とかの名を頂き手、裏面には現実場の利得を貪りつつあるにあらずや。」『現実暴露の悲哀』(明治41年1月『太陽』)

私はここで正岡子規を思い浮かべる。蓑田が論評の主戦場とした機関誌『原理日本』は、三井甲之の『人生と表現』とその前の『アカネ』を通じて、正岡子規の『馬酔木』の総合文芸的な後継誌でもある。『馬酔木』などで表現された正岡子規の思想を、歌に限って受け継いだのが『アララギ』であれば、歌に限らず、文芸全般に拡充して受け継いだのが『アカネ』であり、それに次いだのが『人生と表現』であり、最後に『原理日本』。無力な骨董品的な真情発露に向かう『アララギ』に対して、文学のみならず時事的な言論のリスクの海に打って出たのが『アカネ』。

文体比較を通じて、その思想的な源流を改めて辿ってみる。

2010年12月5日日曜日

存命時系(H23.01.15更新)

(H23.01.15更新)
シェイクスピア    (1564~        1616)
林羅山 (天正11年(1583)〜明暦03年(1657))
林鵞峰(元和04年(1618)~延宝08年(1680))
山崎闇斎(元和04年(1619)〜天和02年(1682))
山鹿素行(元和08年(1622)〜貞享02年(1685))
伊藤仁斎(寛永04年(1627)~宝永02年(1705))
貝原益軒(寛永07年(1630)〜正徳04年(1714))
契沖   (寛永17年(1640)~元禄14年(1701))
林鳳岡(寛永21年(1645)~享保17年(1732))
佐藤直方(慶応03年(1650)〜享保04年(1719))
浅見絅斎(承応元年(1652)〜正徳元年(1712))
新井白石(明暦03年(1657)〜享保10年(1725))
三宅尚斎(寛文02年(1662)〜元文06年(1741))
荻生徂徠(寛文06年(1666)~享保13年(1728))
荷田春満(寛文09年(1669)~元文元年(1736))
太宰春台(延宝08年(1680)~延享04年(1747))
賀茂真淵(元禄10年(1697)~明和06年(1769))
安藤昌益(元禄16年(1703)~宝暦12年(1762))
カント       (1724 〜      1804)
村田春海(延享03年(1746)~文化08年(1811))
塙保己一(延享03年(1746)~文政04年(1821))
ゲーテ       (1749 〜      1832)
佐藤信淵(明和06年(1769)~嘉永03年(1850))
平田篤胤(安永05年(1776)~天保14年(1843))
頼山陽(安永09年(1781)~天保03年(1832))
ショーペンハウアー (1788 〜      1860)
箕作阮甫(寛政11年(1799)〜文久03年(1863))
横井小楠(文化06年(1809)〜明治02年(1869))
マルクス      (1818 〜      1883)
ツルゲーネフ   (1818 ~      1883)

箕作秋坪(文政08年(1826)〜明治19年(1886))
西村茂樹(文政11年(1828)〜明治35年(1902))
西周  (文政12年(1829)〜明治30年(1897))
津田真道(文政12年(1829)〜明治36年(1903))
中村正直(天保03年(1832)〜明治24年(1891))
江藤新平(天保05年(1834)〜明治07年(1874))
福沢諭吉(天保05年(1835)〜明治34年(1901))
加藤弘之(天保07年(1836)〜大正05年(1916))
クロポトキン    (1842 〜      1921)
新島襄 (天保14年(1843)〜明治23年(1890))
井上毅 (天保14年(1843)〜明治28年(1895))
大井憲太郎(天保14(1843)〜大正11年(1922))
ニーチェ      (1844 〜      1900)
箕作麟祥(弘化03年(1846)〜明治30年(1897))
中江兆民(弘化04年(1847)〜明治34年(1901))
森有礼 (弘化04年(1847)〜明治22年(1889))
矢野竜渓(嘉永03年(1851)〜昭和06年(1931))
那珂通世(嘉永04年(1851)〜明治41年(1908))
菊池大麓(安政02年(1855)〜大正06年(1917))
頭山満 (安政02年(1855)〜昭和19年(1944))
田口卯吉(安政02年(1855)〜明治38年(1905))
穂積陳重(安政03年(1856)〜大正15年(1926))
富井政章(安政05年(1858)〜昭和10年(1935))

坪内逍遥(安政06年(1859)~昭和10年(1935))
穂積八束(安政7年(1860)〜大正元年(1912))
三宅雪嶺(万延元年(1860)〜昭和20年(1945))
梅謙次郎(万延元年(1860)〜明治43年(1910))
内村鑑三(万延02年(1861)〜昭和05年(1930))
森鴎外 (文久02年(1862)〜大正11年(1922))
朝比奈知泉(文久2年(1862)〜昭和14年(1939))
新渡戸稲造(文久2年(1862)〜昭和08年(1933))
黒岩涙香(文久02年(1862)〜大正09年(1920)
二葉亭四迷(元治元年(1864)~明治42年(1909))
伊藤左千夫(元治元年(1864)〜大正02年(1913))
白鳥庫吉(元治02年(1865)〜昭和17年(1942))
呉秀三 (慶応元年(1865)〜昭和07年(1932))
狩野享吉(慶応元年(1865)~昭和17年(1942))
内藤湖南(慶応02年(1866)〜昭和09年(1934))
柳原極堂(慶応03年(1867)~昭和32(1957))
夏目漱石(慶応03年(1867)〜大正05年(1916))
一木喜徳郎(慶応3年(1867)〜昭和19年(1944))
幸田露伴(慶応03年(1867)~昭和22年(1947))
正岡子規(慶応03年(1867)〜明治35年(1902))
平沼騏一郎(慶応3年(1867)〜昭和27年(1952))

+++明治元年~45年   (1868~1912)+++

北村透谷(明治元年 (1868)〜明治27年(1894))
徳富蘆花(明治元年(1868)〜昭和02年(1927))
大町桂月(明治02年(1869)〜大正14年(1925))
レーニン      (1870 〜      1924)
西田幾多郎(明治3年(1870)〜昭和20年(1945))
高山樗牛(明治04年(1871)〜明治35年(1902))
高野岩三郎(明治4年(1871)〜昭和24年(1949))
国木田独歩(明治4年(1871)~明治41年(1908))
幸徳秋水(明治04年(1871)〜明治44(1911))
佐々木信綱(明治5年(1872)~昭和38年(1963))
与謝野鉄幹(明治6年(1873)~昭和10年(1935))
河東碧梧桐(明治6年(1873)~昭和12年(1937))
美濃部達吉(明治6年(1873)〜昭和23年(1948))
姉崎正治(明治06年(1873)〜昭和24年(1949))
津田左右吉(明治6年(1873)〜昭和36年(1961))
高浜虚子(明治07年(1874)~昭和34年(1959))
桑木厳翼(明治07年(1874)〜昭和21年(1946))
黒板勝美(明治07年(1874)〜昭和21年(1946))
柳田國男(明治08年(1875)~昭和37年(1962))
長谷川如是閑(明治8(1875)〜昭和44年(1969))
長谷川天渓(明治9年(1876)〜昭和15年(1940))
波多野精一(明治10(1877)〜昭和25年(1950))
吉野作造(明治11年(1878)〜昭和08年(1933))
有島武郎(明治11年(1878)〜大正12年(1923))
牧野英一(明治11年(1878)〜昭和45年(1870))
佐々木惣一(明治11年(1878)〜昭和40年(1965))
上杉慎吉(明治11年(1878)〜昭和04年(1929))
吉田茂 (明治11年(1878)〜昭和42(1967))
スターリン     (1878 〜     1953)
与謝野晶子(明治11(1878)~昭和17年(1942))

正岡藝陽(明治14年(1881)〜大正09年(1920))
斎藤茂吉(明治15年(1882)〜昭和28年(1953))
橋本進吉(明治15年(1882)~昭和20年(1945))
北一輝 (明治16年(1883)〜昭和12年(1937))
松村武雄(明治16年(1883)〜昭和44年(1969))
三井甲之(明治16年(1883)〜昭和28年(1953))
鳩山秀夫(明治17年(1884)〜昭和21年(1946))
永田鉄山(明治17年(1884)〜昭和10年(1935))
荻原井泉水(明治17(1884)~昭和51(1976))
東條英機(明治17年(1884)〜昭和23年(1948))
天野貞祐(明治17年(1884)〜昭和55年(1980))
田辺元 (明治18年(1885)~昭和37年(1962))
塚本虎二(明治18年(1885)〜昭和48年(1973))
大川周明(明治19年(1886)〜昭和32年(1957))
萩原朔太郎(明治19(1886)〜昭和17年(1942))
藤村操 (明治19年(1886)〜明治36年(1903))

第五高等学校(明治20(1887)〜昭和25年(1950))
中塚一碧楼(明治20年(1887)~昭和21年(1946))
大内兵衛(明治21年(1888)〜昭和55年(1980))
小泉信三(明治21年(1888)〜昭和41年(1966))
森戸辰男(明治21年(1888)〜昭和59年(1984))
末弘厳太郎(明治21年(1888)〜昭和26年(1951))
河上丈太郎(明治22(1889)〜昭和40年(1965))
石原莞爾(明治22年(1889)〜昭和24年(1949))
南原繁 (明治22年(1889)〜昭和49年(1974))
田中耕太郎(明治23(1890)〜昭和49年(1974))
滝川幸辰(明治24年(1891)〜昭和37年(1962))
近衛文麿(明治24年(1891)〜昭和20年(1945))
芥川龍之介(明治25(1892)〜昭和02年(1927))
三枝博音(明治25年(1892)〜昭和38年(1963))
矢内原忠雄(明治26(1893)〜昭和36年(1961))
*蓑田胸喜(明治27(1894)〜昭和21年(1946))
フルシチョフ    (1894 〜      1971)
平泉澄 (明治28年(1895)〜昭和59年(1984))

牧野信一(明治29年(1896)〜昭和11年(1936))
岸信介 (明治29年(1896)〜昭和62年(1987))
三木清 (明治30年(1897)〜昭和20年(1945))
佐々弘雄(明治30年(1897)〜昭和23年(1948))
向坂逸郎(明治30年(1897)〜昭和60年(1985))
我妻栄 (明治30年(1897)〜昭和48年(1973))
奥野信太郎(明治32(1899)〜昭和43年(1968))
川端康成(明治32年(1899)〜昭和47年(1972))
細川隆元(明治33年(1900)〜平成06年(1994))
稲村順三(明治33年(1900)〜昭和30年(1955))
尾崎秀実(明治34年(1901)〜昭和19年(1944))
坂本太郎(明治34年(1901)〜昭和62年(1987))
小林秀雄(明治35年(1902)〜昭和58年(1983))
林房雄 (明治36年(1903)〜昭和50年(1975))
吉川幸次郎(明治37(1904)〜昭和55年(1980))
貝塚茂樹(明治37年(1904)~昭和62年(1987))
太宰治 (明治42年(1909)〜昭和23年(1948))

久野収 (明治43年(1910)〜平成11年(1999))
鈴木善幸
田畑茂二郎(1911~2001)
レーガン(        1911~       2004)
岡本太郎(1911~1996)
児玉誉士夫(1911
中村元(1911
瀬島龍三(1911~2007)
武田泰淳(1912)
高橋義孝(1912)
福田恒存(大正元年(1912)~平成06年(1994))
阿川弘之(大正09年(1920)~)
三島由紀夫(大正14(1925)~昭和45年(1970))
(当分、徐々に拡充する予定。誤記があれば、気づき次第、知らされ次第、修正します。)

2010年11月28日日曜日

【或る会話】

FAUST:
Siehst du den schwarzen Hund durch Saat und Stoppel streifen?
 君あの刈株や苗の間を走っている黒犬が見えるかい。

WAGNER:
Ich sah ihn lange schon, nicht wichtig schien er mir.
 はい。さっきから見えていますが、何も大した物ではないようで。

FAUST:
Betracht ihn recht! für was hältst du das Tier?
 好く見給え。君はあの獣をなんだと思う。

WAGNER:
Für einen Pudel, der auf seine Weise
Sich auf der Spur des Herren plagt.
 尨犬です。あいつ等の流儀で、御苦労にも
 見失った主人の跡を探しているのでございます。

FAUST:
Bemerkst du, wie in weitem Schneckenkreise
Er um uns her und immer näher jagt?
Und irr ich nicht, so zieht ein Feuerstrudel
Auf seinen Pfaden hinterdrein.
 君あれが蝸牛(ででむし)の背の渦巻のような、広い圏(わ)をかいて、
 次第次第に我々の方に寄って来るのが分かるか。
 それに己の目のせいかも知れないが、あいつの歩く跡の道には
 火花が帯のように飛んでいるじゃないか。

WAGNER:
Ich sehe nichts als einen schwarzen Pudel;
Es mag bei Euch wohl Augentäuschung sein.
 わたくしには黒い尨犬にしか見えません。
 それは先生のお目の具合でございましょう。

FAUST:
Mir scheint es, daß er magisch leise Schlingen
Zu künft'gem Band um unsre Füße zieht.
 どうも己の考では、未来の縁を結ぶために、
 微かな蠱の圏(まじのわ)を己達の周囲(まわり)に引くらしい。

WAGNER:
Ich seh ihn ungewiß und furchtsam uns umspringen,
Weil er, statt seines Herrn, zwei Unbekannte sieht.
 いや。私の見たところでは、主人でない、知らぬ人を
 二人見て、不安に恐ろしく思って、周囲を飛び廻るので。

FAUST:
Der Kreis wird eng, schon ist er nah!
 圏が段々狭くなった。もう傍へ来た。

                      (森鴎外訳)

2010年11月13日土曜日

【教養について(その1)】

自由発表の題名『日本総呆化微候編集部不祥事件禍因根絶の逆縁教養維新の正機序説雑論』について、少し。蓑田胸喜の題名を捩ったものである事は、先述した通り。差異点は下記の通り。
1)総赤化→総呆化
2)司法部→編集部
3)昭和維新→教養維新
4)「序説雑論」は、ただ当時の発表内容が準備不足の為、まとまりの欠けた、序説的なものになるとの示唆。

1)については、今さら赤化でも無いし、他に色を活用しにくいので、単純に、圏点も時には多用乱用された頃や分野の記事や議論が忘却されがちである事を言い表すのに、「呆」を使った。
2)については、立花氏の無智無理解を質せない編集部の遠慮と、立花氏を含めた大勢の人々の教養の低下を招いたかも知れない安易な編集風潮を、編集部の一言で括った。大した意味は無い。
3)については、この三つの内では最重要であり、蓑田の時代やその問題意識と、我々のとを繋ぐ要の一つである。

蓑田(1894年生)の時代と、我々の時代とを繋ぐ鍵たる《教養》について、先ずは、1900生まれの西谷啓治の証言を引用する:

「当時の私の状態には、自己といふものに目覚め且つそれと同時に人生の問題といふものにぶつかつた、そして自己の自覚を深めると一つに人生の問題をも解決しようとする、青年一般に特有な精神状態もあつたであらう。また、明治の初め以来の日本における精神史上の一段階としての、時代相といふものもあつたと思ふ。併しその外に、私の個人的な事情もあつたので、私自身にはこの自己自身の絶望的な気持が、人生の問題と一つになつて、日夜心の中を去来していたのであつた。さういふ三つのものが合流していたなかで、その時代の精神史的な特性といふものは、当時の私には自覚に上がらなかつた。
「その時代の特性といつたのは、明治の初め以来、その時代において初めて個人の自覚といふものが現れて来たといふことである。西洋文明の移入は、初め制度文物といふやうなものが主であつたとしても、次第に西洋の芸術、思想、科学、更には道徳観といふものまでも浸透して来て、その方向を徹底すれば必然的に個人の内面的自覚、自我の自覚といふ所まで到るはずであつた。西洋精神に媒介されたさういふ個人的自覚の段階が、『三太郎の日記』などの現れた時期に当つているのではないかと思ふ。それは以前の自由民権といふやうな、社会における個人の自立といふ問題ではなくて、個人としての個人の内面的自立の問題であつた。それは社会的批判としてではなく、否定的には人生観的ーーー世界観的な懐疑として、肯定的には倫理的な人格性の自覚として現れた。そしてさういふ懐疑や倫理を包んで、芸術や歴史や哲学などによる「教養」が求められた。教養もそこでは個人の自覚、自己確立の道といふ意味を失はなかつた。ドイツ哲学がわが国に盛んに迎へられたのも、さういふ理由からであつた。ドイツ哲学は西洋において、さういふ内面的自覚の立場を最もよく代表するものであつたのである。唐木順三君は、当時におけるさういふ風潮を教養派として批判しているが、その当時の教養派には、その後の「文化人」的、「知識人」的な教養派に比して、まだ自己内面の自立性を求めるところ、そしてそこに広い意味での倫理といふものを認めるところがあつた。
「併しそれにしても、漱石や西田先生などの場合には、自己を確立しようとする態度に、それに続く世代の場合とは違つたところがあつたやうに思ふ。それは、自己が自己の内へ向かって旋回するといふ態度よりは、むしろ自己の中心から前向きに進んで自己を求めるといふ態度であつた。[...]それは教養といふだけでなく、一層深く宗教的、求道的であり、知性といふだけでなく一層深く意志的である。漱石や西田先生などの世代におけるさういふ態度は、その世代の人々にまだ東洋精神の伝統が基盤になつていたためであるかも知れない。そしてその精神が、流入して来た西洋精神を高く吸い上げて、明治の初め以来一つの根本的課題であつた個人における自己の確立といふ方向に大きく開花したのであるかも知れない。さう考へれば、その世代とそれに続く諸世代との間には大きな断層があるともいへる。それはともかくとして、早くから虚無的な心状に落ち込んでいた私には、初め漱石によつて、次いで西田先生によつて、それに抵抗する力が吹き込まれた。自己の進み得る唯一の道の道しるべを、そこに見出したのである。」
(西谷啓治『西田幾多郎』筑摩書房、8〜10頁)
(*できるだけ正確に引用するつもりだが、タイプの便宜上、歴史的仮名遣いの文書を完全にその仮名遣いでタイプしなかったり、逆に、現代的仮名遣いで書き写したりもするだろうし、内容に影響が無いか、ほぼ無い限り、速タイプ中、小さい表記の差が起きても放置したりもし得る。気になる方がいれば、原著で確認あれ。引用について、この点、ご了承願う。)

2010年11月4日木曜日

【圏点乱用を追って】

蓑田胸喜が影響された広範な言説の大海に身を投じる前に、傍点とも呼ばれる圏点の乱用について、時代的風潮を概観しよう。私が先ず以て引っ掛かったのが、立花氏がこの乱用を物珍しいかの様に「異様」と形容し、狂気の証拠として暗示してるかの様にわざわざ本では写真でもって掲載してる事であった(雑誌での該当記事には無かった)。

私は何らの大層な専門家では無いが(圏点をも専門とする分野が何かはそもそも不明だが)、そう言う私でも、この様に圏点を頁中に散りばめた文献は、少なからず目にして来た。なので、異様とは思わない。戦前の日本に於いては、珍しくは無い現象である。これを異様と思うのは、立花氏が戦前の文献を、広く読んでいない証左であろう。

幾つかの例を提示する。

北村透谷


内村鑑三


徳富蘇峰


かと言って、戦前の誰もが圏点を多用乱用していた訳では無い。珍しく無いが、極めて一般的だ、と言う訳でも無い。これは特に圏点乱用について言える。多用ぐらいなら未だ強調の機能を果たし得るが、乱用して、頁が圏点に埋め尽くされては、文中の何かが特に強調される訳でも無く、文書全体が不断に強調される。「しかと読め、聴け!」と延々と請願されてる印象を受ける。言わば、情熱の証かのようなのだ。

しかし、改めて言うまでもなく、情熱的な誰もが圏点を乱用した訳でも無い。私は想う、蓑田青年は、圏点乱用する或る限られた数の、そして或る限られた分野や状況の著者著作を読んで、「圏点乱用しても良いんだ」もしくは「こう言う時は圏点乱用も相応しいんだ」と言う観念を持ったのだ、と。圏点乱用を追う事によって、蓑田青年が何を読んでいたか、そして、その読んでいたものは如何なる思想史的な背景を有していたのかを解明する別の視点、別の糸口になり得ると思う。その思いに基づいて、このブログでは、圏点乱舞せし記事論説やその著者を紹介分析して、明治と大正の時事思想の大海に出る。立花、蓑田、圏点は、明治大正へとの糸口であり、明治大正は昭和平成ー現代へとの糸口である。

【序説】

立花隆氏の連載『私の東大論』は、当時の文藝春秋を眼にする機会がある度に読んでいた。外国在住だった事もあって、毎月読めてはいなかったし、読めた内容を本格的に批評する時間的余裕や、知識的意欲も、当時は欠けていた。立花氏の論説をまとまった形で手にしたのは、『天皇と東大』と題されて出版された後である。前々から蓑田胸喜に興味があった私は、題名に惹かれて、その中の第三十八章「狂信右翼・蓑田胸喜と滝川事件」を真っ先に読んだ。過去に読んだ記憶は薄れていたので、初めて読むのと同然であった。

そこで私の目を引いたのは、2点。一つは、立花氏が、蓑田による「大げさな傍点」(文字の横に強調用につけられる●等)に満ちた誌面を見て(本に於いて掲載(下の画像参照))、特段「異様」だとわざわざ形容した事。(これについては後述する。)もう一つは、蓑田の遺族の抗議によって、○によって伏せられた章末の諸文句の内容。後者については、大宅壮一文庫で確認したところ、○○○○○は全て、「真正の狂人」。○○は、「狂死」。その他、その項目の題名が、雑誌では「狂気蓑田はいつから狂ったか」であったのが、本では「黒板に蓑田狂気と落書き」に変更。



しかし、「狂気の証拠」、「狂気の一つの徴候」、「狂気を感じとっていた」、「本当に狂ったとしか思えない行動」、「いつから狂ったのか」、「赤狩り狂奔の時代からすでに狂っていた」、「日本の狂気の時代は、この狂気のイデオローグによって推進された時代だったのである」、と言う記述は放置。(そもそも、維持された章名の「狂信」から「狂気」まで大した距離は無い。)

最終項目において、立て続けに狂気を無駄なほど強調したのは、内容上の必然であるより、多分に、「狂気の時代は」云々と言う決め文句でこの章を締めたかったが故であろう。脆弱な根拠に、勘違いな思い込みを重ねて、疑惑の推定を断定へと持ち込む、悪徳検察官並の「絵」(青木雄二・前田恒彦)の書き様だ。しかし、「死者をリアルな存在として知っている人」である遺族に抗議されたので、「その認識に異を立てて争おうとは思わない」と言って、狂気断定を「不適切な表現であったとして」「取り下げ」た。が、良く見ると、立花氏が取り下げたのは、疎開から自決の間に関する狂気の記述でしかない。「赤狩り狂奔時代から」疎開時までの狂気断定は維持した。何たる欺瞞。

そもそも「日本の狂気の時代」、と言う一種の文学的表現が暗示する意味とは、その時代を担った日本人全てが狂気だった、と言う事である。言わば、それに対して蓑田を狂気とみなせば、当時の日本もしくは日本の権力潮流においては、蓑田は普通だった、と言う事でもある(普通もまた、狂気と共に、不明瞭な用語である事は勿論)。が、立花氏の文学的表現による個人史の冒瀆は、そう言う用語の局所的な逆転解釈だけでもって済ますべきものでは無い。立花氏の蓑田の誤評と無理解は、蓑田一個に留まらず、蓑田が体現した日本の或る文化と歴史の流れに関する誤評と無理解である。そこで、立花氏の無智愚論を解明する事をキッカケに、蓑田胸喜の思想と言動を遡源する。蓑田青年が育った明治や大正前期への旅でもある。今の日本の理解を深めんが為、過去の理解を深めたい。

2010年5月29日土曜日

【はじめに】

平成22年11月03日、「皇室と日本を考える」主宰の『国史における『明治』の位置』と冠された大場一央氏の特別講演に付随して私の自由研究を雑論形式で発表させて頂いた。タイトルは、テーマの主人公である蓑田胸喜の著作題名『日本総赤化微候司法部不祥事件 禍因根絶の逆縁昭和維新の正機』にちなんで、『日本総呆化微候編集部不祥事件禍因根絶の逆縁教養維新の正機序説雑論』と名付けた(その名に込めた意義については後述する)。副題は、『〜明治期圏点乱用の軌跡を辿って蓑田胸喜の用点用語の背景奥史を探検し、立花隆氏の悖逆妄評を糺明弾劾す〜』。時間不足が故、準備不足となり、まとまりに欠けてしまったが、その場のオチは付けられた。が、それで終わらせるにはもったいないテーマなので、ブログにて、ゆっくり、じっくり、この話題を掘り下げて行きたい。